3度目の失敗
私が自宅の居間で、貯めに貯めた薬を何百錠か飲んだのは17の時。
私は卒倒し、母は「娘が死んだ」と思ったらしい。
確かに私は1回死んだ。
心臓が止まったのだった。
その時失敗してなけりゃ、こんなことにはならなかっただろう。
それから何十年か経ってまた同じ事。
明日を生きたかったはずの(若しくは死ぬなんて予想していなかったであろう)(若しくは本当に生命を経つつもりだった人の)知人の葬式に参列し、
動物の遺体のエンジェルメイクを覚え、「なんだか似合うわ」と言われ
それなりに生きてきた何年間か、友人とした会話の中で1番覚えてるフレーズ。
お腹の中にまだ赤ちゃんがいた彼女。(以下Mちゃん)
希死念慮を覚えている彼氏。
1度目彼は飛び降りた。
顔面、身体中にボルトを入れ リハビリに耐えて、ふつうに生活ができるようになった頃彼の希死念慮はまたやってきた。
お腹の中に赤ちゃんがいることを彼に伝えていなかったMちゃんは
1度目の飛び降りより更に高い階から飛んだ彼のことを
「やっとのことで逝けたっぽい」と言った。
彼がこの世を去って、赤ちゃんを無事産んだ9年後のこと。
彼と同じく飛び降りで全身を骨折し、車椅子状態だった私を見舞いに来た時にぽつりと話したのだ。
私たちは何があったとか、こういう経緯だったとかは話さない。
連絡を取る必要があるなら話し、連絡を取る仲だ。少し変わってるのは
私が3度目の失敗をした後、
またやった。失敗
ーーーなに?ヘラってたの?
すごく会話がシンプルだということだ。
ーーー私も最近死のうと思ってて男に首絞めてもらうんだけど、意識落ちるだけで何もならんのよな。どうやったら死ねるのかな
彼女が自分の生死に疑問を持つのは当たり前だと思ったし、ごくごくシンプルでスムーズな会話だった。
死ねる方法か。分からない。
でも私は寿命だと思う。何やったって、3回目失敗したら あとは寿命。その人の寿命が来なければどれだけボロボロになったって、死ねないと思う。
ーーーやっぱり寿命かぁ。
Mちゃんも常に疲れている。もがいている。
彼女の苦労をつらつらと聞いたことはないが、いつでも疲れている、という雰囲気が背中から伝わってきた。
3度目の失敗をしてもMちゃんは私に「生きなよ」とは言わなかった。
だからといって「死ねよ」とかも言わなかった。
私たちはいつも生きようという話は特にしなかったんだった。
ただ起こったことを伝えたら、そういう会話になっただけだ。
私たちは怒られるようなことをしているのか。そもそも怒ってくれる人がいるのがまだ救いなのか、そんなことも話す気力はなかった。
今日は雨が降って、寒いらしい。
「寒いね」と話す周りの人の会話が溶けて落ちていく。
寒いなんて関係ねーんだよ。
こちとら、うまくいってたら葬式だって昨日のうちに済んでた。
誰かに十字架を背負わせてたらしい。
一生顔も存在も見せることなく ただこの世から消えてた。はずだった。
17歳の時の私がしたかったように消えれたかもしれないんだ。
晴れだとか、曇りだとか、寒いねとか、暑いねとかは生きている人間のための言葉だ。
誰かの迷惑になっても、誰かの心の深い穴になろうとも、消えたかった。
それが叶わなかった。
心臓がバクバクなり続ける。うるせーよ。
だけど、部屋の中に1人でいるのはもっと怖い。
誰にも気付かれず死んでいくことは怖かった。
3度目の失敗は矛盾に終わり、誰かにまた怒られる未来が安易に予想できた。
夜が深くなると共に誰かが誰かのもとへ帰ってゆく。
若しくは誰かが自分のところに帰ってゆく。
今こうして葛藤している私でも、いつか死ぬ。
産まれてきたってことは死ねるってことだ。
今そうするかのように、そうなったように生命を終えた人が世界にいるのだと思ったら、ささやかに祈り ささやかにお疲れ様だったとしか思えない。
Mちゃんの彼氏のように。
3度目の失敗をしてでも、願わずにはいられない。
誰に怒られても。自分に怒鳴られても。パートナーにまた泣かれても。
思わずにいられないし、数日前に悔いが残る。
どうか誰も悲しまずに悔やまずに、私が逝けますように。
安心して眠ってと思って欲しい。
私が誰にもそうするように。
だけど、それにはまだまだ時間がかかるらしい。